mixiから亡命しました

mixiクオリティに見切りを付けて、2008年12月に日記をまるごとfc2に引越しました。
管理者ページ 
 iTunes Store(Japan)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
We must love one another or die

愛しあわなければ、
わたしたちは死ぬしかない。
白い紙にそう刻んだのは、
詩人のW・H・オーデンだった。
だが、間違いだった、と詩人は言った。
本当は、こう書くべきだった。
わたしたちはたがいに愛しあい、
そして死ぬしかない、と。
わたしたちは、みな、
死すべき存在なのだから。
それでも不正確だ、と詩人は言った。
不正確というより不誠実だ、と。
たぶん、そうだと思う。
わたしたちは、そのように
愛について、また、死について、
糺すように、書くべきでない。
晩秋深夜、W・H・オーデンを読む。
詩人の仕事とは、何だろう?
無残なことばをつつしむ仕事、
沈黙を、ことばでゆびさす仕事だ。
人生は受容であって、戦いではない。
戦うだとか、最前線だとか、
戦争のことばで、語ることはよそう。
たとえ愚かにしか、生きられなくても、
愚かな賢者のように、生きようと思わない。
We must love one onother or die.
わたしたちは、
愚か者として生きるべきである。
賢い愚か者として生きるべきである。
明窓半月、本を置いて眠る。




長田弘(1939年11月10日〜2015年5月3日)
彼の死を本日、ニュースで知りました。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
スポンサーサイト
こわれたビルディングの地下室の夜だった。

原子爆弾の負傷者たちは

ローソク1本ない暗い地下室を

うずめて、いっぱいだった。

生ぐさい血の匂い、死臭。

汗くさい人いきれ、うめきごえ

その中から不思議な声が聞こえて来た。

「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。

この地獄の底のような地下室で

今、若い女が産気づいているのだ。

 

マッチ1本ないくらがりで

どうしたらいいのだろう

人々は自分の痛みを忘れて気づかった。

と、「私が産婆です。私が生ませましょう」

と言ったのは

さっきまでうめいていた重傷者だ。

かくてくらがりの地獄の底で

新しい生命は生まれた。

かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。

生ましめんかな

生ましめんかな

己が命捨つとも
 忘れもしない、昭和39年8月5日のことである。
 その年の4月1日にスタートした『木島則夫モーニングショー』は、視聴率こそ少しずつ伸びてはいたものの、スポンサーはアメリカのヴィックス一社。番組枠を買い切っていた広告代理店の博報堂は、その時六千万円近い赤字をかかえこんで、厳しい決断を迫られていた。
 とはいえ、翌日は19年前広島の空に原爆が炸裂した日である。時間は午前8時15分。番組が始まる8時半は、平和公園で祈念の式典が始まって間もない時間である。

 この生中継を外すわけにはいかない。

 あらかじめRCC(中国放送)に依頼してあったので、木島さんにはその日の番組が終わって直ぐ広島に飛んでもらっていた。中継の準備がすべて終わったとスタッフ・ルームに電話が入ったのが、夜の10時過ぎであった。翌日の番組進行表も既に刷り上がっている。

「もういいだろう、そろそろ帰ろうや」

 残っていたスタッフに声をかけて立ち上がった時、デスクの古谷寿里雄君が独り言のようにこうつぶやいた。

「スポンサーはアメリカの会社ですよ。耳に入れておかなくていいのかな」

 そう言われれば確かにそうだ。11時前だからまだ失礼にはなるまい。私は念のためにと、芦屋にある日本ヴィックスのピーターソン社長のお宅に電話を入れた。そして明日の番組の頭で広島からの式典の中継を放送することを伝えた。

「わかった。プロデューサーとしては当然だろう」

 予想通りの、好意的な返事であった。
 その時ふと頭をかすめたのが、生中継の直後に入るスタジオでのCMである。進行表では栗原玲児君が、ヴィックス・ドロップのCMをアドリブで喋ることになっていた。『モーニングショー』は始業時間前の番組なのでCM課から担当は出せないと、CMまで私に任されていたのである。いささかのためらいはあったが、思いきって本音をぶつけてみた。

「ところで、非常識であることを承知で申し上げるんですが、原爆の中継のすぐ後でアメリカの商品を買って下さいと宣伝するのは……」

 とたんに先方の声がとぎれた。

 ――言い過ぎたか――

 社長もそこまでは思いつかなかったのだろう。数十秒間の空白が、私には永い時間に思えた。
 やがてその沈黙を破って、こんな一言がとびこんできた。

「いろいろ考えたんだが、明日はやめよう」
「えっ?……」

 そんなことになったら、私の首どころか番組が潰れる。私はあわてて喰い下がった。

「とんでもない、そんなことをお願いしているんじゃありません。ただ何かいいアイデアがないかと……」

 思わず声が上ずった。社長はそんな私の気持を見透してでもいるかのように、笑いながら言葉を続けた。

「なにも番組の提供までやめると言っているんじゃあない。コマーシャルだけをやめるんだ。あとは君に任す。安心してやりなさい。では」

 電話はこれで切れた。私は思わず心の中で手を合わせた。
 時計を見たらもう11時半。上司や代理店に連絡するには時間が遅すぎる。といって、翌朝こんな報告をしていたのでは、本番の準備に差し支える。とにかくスポンサーの社長の意向なのだから、報告は放送が終わってからにしよう。私はそう腹を決めた。

 翌朝、広島の式典会場からどんな映像が送られてきたかは、30年余りも前のことで、細かいところまでは想い出せない。だがその中でただ一つ、会場を移動する木島さんの足許だけをカメラが延々と追っていた。そしてこんなレポートを伝える木島さんの声だけが流れてきたのは、いまも脳裡に焼きついている。

「新ジャガが出ると、私は八百屋の前を走り抜けるんです。ペロッと皮のむけるところを見ると、いまだにあの日の母の顔を思い出して……」

 当日参列していた女性からあらかじめ取材した話であろう。噛みしめるように、しかも淡々と語るその声は、被曝の惨さを何よりも明確に伝えていた。
 15分余りの中継が終わってスタジオのCMに切り替わる。送られてきた画面を見つめていた栗原君の眼も、心なしか潤んでいるようにみえた。

「さて、ここでヴィックスのコマーシャルですが、スポンサーのご意向で、今日はさし控えることにいたします」

 これが私の考えたCMであった。
 とたんにサブ(スタジオの副調整室)の電話が鳴った。何ということをしてくれたのだという、代理店の担当者からの電話らしい。営業のへやからも何人かがサブに駈け込んできた。

「心配するな、番組が済んだら説明する」

 いちいち弁解などしているより、私には番組の進行のほうが大事である。
 その番組も無事に終わった。私はすぐさまサブをとび出して、社内に説明に回った。
 出社の途中で、番組を視ていなかった上司も多く、

「え? スポンサーの社長にCMをやめさせたって?」

 と、呆れた顔をしてその非常識さを何人かに問い質されはしたものの、スポンサーの社長の意向ならと、叱られることもなかった。
 汗を拭き拭きスタッフ・ルームに戻ってきたら、たまたまピーターソン社長から電話が入ったところであった。

「やあ、ご苦労さん、いい番組だったよ。CMも最高だった。ありがとう」

 毎日何十通と届いていた視聴者からの手紙が、その翌日からは倍に増えた。そしてそのほとんどに、これほど誠意のある立派なスポンサーは初めてだ、と書き添えられていた。いくつかの新聞も賛意をこめて記事にしてくれた。
 それ以来、私がこの番組を離れるまで、原爆の日と敗戦の8月15日には、ヴィックスの生CMは入れないのが恒例となった。

(テレビ朝日「社友報」6号より)
 一九五三年(昭和二十八年)九月七日。
 その日の衝撃を、四十三年後の今も、私は鮮明に記憶している。

 敗戦からわずか八年目のその年の八月末、大同海運の高花丸に、主人と私は乗船。無謀なアメリカ私費留学へと出発したのだ。当時は客船はまだなく、貨物を運ぶと同時に船客も少数のせる”貨客船”が太平洋を運航していた。
 二週間の船旅の後に、九月七日早朝、サンフランシスコ湾の入口に到着。アメリカ人の水先案内人が小舟で近付き、大声で何かを叫んだ。
 ”衝撃”というのは、彼の英語を耳にした瞬間から始まった。それが”無謀”な留学生活の第一歩でもあった。
 だが、昭和二十八年という時点では、英語もよくわからずにアメリカへ行くこと自体が無謀なのかどうか、よく解らなかったのだ。アメリカについての情報は乏しかった。ラジオはあったが、テレビは出現したばかり。電気冷蔵庫や、ことにクリーナー、テープレコーダーなどという物は、見たこともなかった。

 東大の大学院で動物学を勉強していた主人は、早稲田大学仏文科の学生だった私と結婚すると、生活のために成蹊高校の教師になった。だが、それから三年。動物学への夢を捨て切れなかった彼は、もう一度アメリカという新天地で勉強し直そうと決心したのだった。私もその年に卒業し、二人そろってカリフォルニア大学バークレイ校の大学院に入学を許可された。
 一年分の学費と渡航費は、主人の父が出してくれた。二人の手持ちは、五十ドル。すぐにアルバイトを探して生計を立て、二年目の学費は夏休みに捻出する。この計画がいかにひどいものだったかを悟るのに、時間はかからなかった。
 貧しい地区に月三十七ドル五十セントのアパートを借り、主人は大学近くのブレーク・レストランで皿洗いを始めた。月曜と金曜の夕方五時から朝の二時までで、時給一ドル十セント。私は通いのメイドになった。
 学業がいかに困難だったかは、ここでは語るまい。科学が専門の主人と違い、英仏語だけが頼りの分野にいた私は、毎時間脂汗と冷汗を流し続けた。

 だが、やっと待望の夏休みまでこぎつけたときに、本当の危機はやってきた。
 フルタイムに働くはずが、職がないのだ。朝鮮戦争の休戦で軍需産業は不景気になり、失業者があふれていた。職業紹介所は、どこもダメ。日本人留学生たちは一団となって、工場の戸別訪問を始めた。求職の長い列が、早朝から工場の門の前にできる。そこに並んで何時間も待ち、やっと面接の順番がくると、審査員がする最初の質問は、「あなたは学生ですか?」だった。「イエス」と答えれば、それだけで拒否される。工場側としては、三ヶ月しか働かない労働者はいらないのだ。
 イラン人の学生たちはほとんどが職をみつけ、「お前たち、バカだな。移民労働者だと言って働き出し、三カ月で止めればいいのに」と嗤っている。だが、日本人学生たちは、一人として嘘が言えないのだ。敗戦国からとはいえ、私たちはいつの間にか日の丸を背負っていた。武士道の精神に悖るようなことはできなかったのである。

 結果として、日本人学生たちはとぼとぼと工場訪問をつづけた。バス代がないので、四十ブロックを歩いたこともある。この学生たちが一流企業の社長や重役の子供たちであったことを思うと、隔世の感がある。それでも職がなく、やがて学生たちはバラバラになった。主人は毛布一枚かついで田舎をまわり、季節労働者の群に身を投じた。私はバークレイに残り、フルタイムの住み込みメイドになった。
 だが、夏休みの終りに主人が持ち帰ったお金は九十ドル。私が貯めた二百八十ドルと合わせても、秋の学期の授業料しか出ない。
 私は住み込みを続ける決心をした。早朝と帰宅後、休日なしで必ず今までの仕事量はこなす。だから大学が始まっても、このままの給料で働かせてもらえないかという私の懇願を、その家の女主人は聞き、しばらく黙った。
「私は慈善事業はしたくありません。でも、私があなたに是非続けてほしいのは、あなたが優秀なハウスキーパーだからです」
 という女主人の言葉を、私は涙ぐみながら押し頂いた。

 あのアメリカ大陸で、今は亡き主人と私は力を合わせて闘った。季節労働者とメイドから、階段を一段ずつ上った。そして私たちは成功したと言えるだろう。主人はマサチューセッツ大学の準教授となり、私もある程度の成果は上げられたのだから。いや、工場の戸別訪問でことわられ続けた留学生たちのそれぞれが、成功を収めた。それは、嘘が言えなかった日本人としての矜持によるのだと、四十三年後の今にして思う。


(サントリー文化財団編「アステイオン」1997年秋号より)
 国によってことばがちがうように、土地によってその風土特有の陽光がちがい、大気の匂いも異なる。同じコーヒー一杯にしても、味も香りもちがう。地上の文化の多様さは、だからたのしい。

 たとえば人はパリへ、孤独になりにやってくる。きついタバコの煙の立ちこめるパリのカフェで苦いエスプレッソをすすりながら、人は知性を極限までとぎすませて会話を進め、その孤独の相はますます深くなる。

 ベルリンでは、コーヒーがさめるのも忘れて理屈を貫きとおそうと論戦してやまない。しかしウィーンへ、人は和らぎを求めにやってくる。まろやかなコーヒーの味と香り、とげのないウィーンのことば、そしてどこからか低く聞こえてくるウィーンのメロディーに、人は友とともに思わず身をゆする。

 モーツァルトやベートーヴェンやシューベルトが住んで歩きまわっていた旧市内だけで、千五百軒ものカフェがあり、それぞれが個性的な魅力を誇っている。どれもしっとりした雰囲気のお店ばかりだ。

 料理はパリ、お菓子とコーヒーはウィーンが世界一。そう言い切っていいだろう。日本の喫茶店とちがって、何よりも安くておいしいのである。無数にある上質なカフェのなかには、ヨーハン・シュトラウスがデビューしたドームマイヤーというお店や、メッテルニヒお抱えのお菓子職人ザッハーのつくったカフェ・ザッハーなどがあり、旧王宮近くにはデーメルがある。一見何気ない構えだが、ハープスブルグ王家の双頭の鷲の紋章がある。宮内庁御用達というわけだ。

 けれども気楽に入れる。小型の、大理石張りでクロースなしのテーブルにつくと、黒服に白いレース姿の小柄なウェイトレスがすぐに注文を取りにくる。ケーキが欲しければ、ケーキ台のところへ案内してくれる。そしてコーヒーを運んできてくれるのだが、コーヒー・カップをのせた銀のお盆には、きれいなお冷やを入れたコップものっている。有料のミネラル・ウォーターではない。二千年前に古代ローマの軍隊が敷設した上水道をいまも大事に使って、遠い山の中から真清水を引いてきている。だからウィーンのコーヒーもおいしいのだ。全ヨーロッパで、ウィーンとザルツブルクだけの無料サービスといえよう。かつてベルリンでもこのサービスがあったそうだが、水道の水質がおちて出来なくなった。水の良いところにはコクのある文化が育つ。

 ウェイトレスたちの動作のキビキビしていること。静かにつつましく注文を取り、ヒタとこちらを見つめ、全身で覗きこむようにして話しかけ、それでいて無用な作り微笑はしない。何を訊いても、すぐ正確な返事が返ってくる。仕事について専門の知識と自信を持っている。それだけではない。女性として、というより人間として、実にいきいきしていて、存在感がある。人間として相手に向かい合う。ああ、いいな。ヨーロッパだなあ、と私はいつもそう思う。

 むろんここデーメルでも、コーヒーだけでなくてケーキもいい。とくにアップル・パイは絶品。焼きたての特大が三百円しない。コーヒーもそう。安い。いや、日本の物価が高過ぎる。内外価格差が、いまもあり過ぎる。エネルギー諸費を含め、生活の基本物資の価格が、日本ではヨーロッパの倍近いケースが多い。土地神話と株価が崩壊したが、物価高だけは人為的に残ったのではないだろうか。

 ケーキのおいしさ、安さもさることながら、私が感動するのは、くり返しになってしまうけれども、カフェで働いている若い女性たちの控え目でつつましく、それでいて仕事への誇りと自信に満ちた姿、ひとことひとことの言語の正確さ明瞭さ、確信あふれる発生発語、相手を正面からさわやかに見つめる視線の美しさ、つまり人間らしさである。デーメル以外のいろいろなカフェでも、同じことを見るにつけ、日本の女性もどんな仕事場にあろうと、このように人間らしく人間としても自覚を持って、つまらなそうな顔や幼児的おしゃべりをしないでくれるといいのだが、と思う。

 ウィーンの彼女たちが路上に出たときの姿がいい。姿勢を正して歩いた足のあとが、アヒルの足あとでなくて一直線になっている。膝を曲げず、一歩ごとまっすぐにのばして歩いていく。彼女たちは小さいときから母親に、「女らしくしなさいよ」と言われて育つ。英語に訳せば "Be ladylike" か。

 この語を初めて聞いたとき、私は自分の耳を疑った。ところが彼女たちは、それに反抗しようとしないどころか、「そうね」とにこやかに返事をしている。何たることか、と思った。ところが、この語の中身が日本語のそれとまるでちがっている。

 家から一歩外へ出たら、七人の敵どころが全世界を相手に、豊かに胸を張り、頭を上げ、目を前方に向けてまっすぐ歩き、全世界の関心を我にひきつけよ。乗り物にのっても、すぐ腰をおろしてガクンと首を折るなどは、一生の敗北。車内の人びとをおのが目の魅力にひきつけよ。これが「女らしく」なのだ。会合、会議ではぐんぐん発言し、行動せよ。「ひっこんでいろ」という意味の日本語とはえらいちがいである。

 ウィーンのみならず、一般にヨーロッパの人びとの夕方の帰宅時間は早くて、はっきり決まっている。勤め帰りに一杯やる習慣は、ドイツ、ウィーンにはない。やるなら、いったん帰宅して、夕食を済ませてからやおらゆっくり出かけていく。庶民はカフェなりビア・ホールなり、かのたのしきオペレッタへ。学生やふつうの市民は、毎夜いたるところで安く催されている音楽会、オペラ、お芝居、講演会へ出かけていく。学校のPTAも両親揃って夜の集まりが多い。

 夕方以降の時間が、完全にフリーで豊かにたっぷりある。週末と長期有給ヴァカンスはいうまでもない。これを時間のゆとりといってよかろう。

 人間には二種類の時間がある。ひとつは社会生活を律する外的時間だ。もうひとつは、一生を通じて内面を流れる内的な時間である。ヨーロッパの人びとは、この二番目の内的時間、自分自身の時間を何よりも大切にする。そこに内的な文化がある。時間においてすら、バブルふうのフローでなくて、堅実な(日本人から見るとまどろっこしい)ストックがある。――ウィーンのカフェの窓から緑豊かな街路を見やりながら、私はそんなことをおもう。

 そのウィーンの町は、ベルリンもそうだが、なんと市内の四九パーセントが緑なのである。都市の大通りにゆさゆさと枝をゆするカスターニエン栗や菩提樹の大木に、リスたちが遊んでいる。町並みはみごとに整然と揃っている。ドイツの建築技師が基本設計をしたパリ市街の相貌もそうだ。

 市内の商店街であっても、地下は駐車場、三階以上は住宅になっている。人が住む町なのだ。人が住まぬオフィスだけの町は、都市としては異常なのではあるまいか。あの人情の冷たい、孤独な町パリでさえ、多くの人がなつかしさにたえられずにやってきて住む。世界の芸術家たちがパリに住もうとする。国際化はそうなって初めて根をおろす。

 ウィーンもいま人口の三割近く、移民難民を受け入れてびくともしていない。そのふところの深さ。問題はむろん多い。しかしヨーロッパの都市における生活文化の質は深く強靭であり、真に豊かだ。その豊かさとは、緑の環境や都市計画はむろん、市民各自が内的な「自分の時間」を持てること、それによって人間らしく生きられることによるのだ。


(「高校英語展望」1997年6月号より)
 神無月ということばがあります。旧暦の十月、八百万の神々が出雲大社にお集まりになり全州の村々から神がいなくなる月、という意味です。
 逆に、神をむかえる出雲では、神在月といいます。

 子供のころ、神在月に、いとこたちとかん高い声をあげて、にぎやかに遊んでいると、きものの祖母がしずしずあらわれ、言ったものです。

「神在月でお忌みさんだけんね(だからね)、静かになさいませや」

 日本の津々浦々から、神様がたがこぞって雲州へおいでになり、大事な話し合いをなさっているのだから、おじゃまにならぬよう、静かにすごしましょう……。お忌みさんとは、神への気づかい、また畏敬をこめた言葉であり、風習です。
 大人たちも、お忌みさんのころは、歌舞音曲や、宴席のどんちゃん騒ぎをひかえたようです。

 出雲では、神様がいらっしゃるころ、急に暗い雲がひろがり、雷鳴とどろき、稲光が空に走り、雨風に荒れる日があります。祖母は空を見あげて、「あらら、お忌みさん荒れだわ」と言ったものです。

 科学的にいえば、晩秋から初冬となり、シベリアからの季節風が日本海をわたって吹き荒れる季節なのかもしれませんが、祖母が「お忌みさん荒れだわ」と言うと、人知をこえて天空を支配する神々のはたらきを感じて、子どもながらに、おごそかな気持ちになったものです。

 そのうち神在月も終わり、斐伊川の神立橋から、神様が出立されると、ちらほら雪花が舞う日もあり、出雲は静かな冬となります。

(YUCARI Vol.14より)
もう過ぎてしまいましたが、母の日にちなんで一通の手紙を紹介します。
太平洋戦争末期、人間魚雷「回天」に乗り込み、18歳の生命を終わらせた兵士の遺書です。



お母さん、私は後三時間で祖国のために散っていきます。
胸は日本晴れ。
本当ですよお母さん。少しも怖くない。
しかしね、時間があったので考えてみましたら、少し寂しくなってきました。
それは、今日私が戦死する通知が届く。
お父さんは男だからわかっていただけると思います。
が、お母さん。お母さんは女だから、優しいから、涙が出るのではありませんか。
弟や妹たちも兄ちゃんが死んだと言って寂しく思うでしょうね。
お母さん。こんなことを考えてみましたら、私も人の子。やはり寂しい。
しかしお母さん。考えてみてください。
今日私が特攻隊で行かなければ、どうなると思いますか。
戦争はこの日本本土まで迫って、この世の中で一番好きだった母さんが死なれるから私が行くのですよ。
母さん。今日私が特攻隊で行かなければ、年をとられたお父さんまで、銃を取るようになりますよ。
だからね。お母さん。
今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。
でもやっぱりだめだろうな。母さんは優しい人だったから。
お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。
私が一番怖いのは、母さんの涙です。



この手紙の中には、「母さん」もしくは「お母さん」という呼びかけが12回も出てきます。

この、母を思う息子の気持ち

そして、亡き息子からこの手紙を受け取り、読む母の気持ちは如何ばかりか。

このようなことは二度とあってはならないのです。繰り返してはならないのです。

日本を、故郷を、家族を、愛する人を生命を賭して守ろうとした人々のこの思いは、決して無駄にしてはならないのです。
  「天国のあなたへ  柳原タケ」

 娘を背に日の丸の小旗をふつて、あなたを見送つてから、もう半世紀がすぎてしまいました。たくましいあなたの腕に抱かれたのは、ほんのつかの間でした。三十二才で英霊となつて天國に行つてしまつた、あなたは、今、どうしていますか。

 私も宇宙船に乗つて、あなたのおそばに行きたい。あなたは三二歳の青年、私は傘寿を迎える年です。おそばに行つた時、おまえはどこの人だなんて言わないでね。よく来たと言つて、あの頃のように寄りそつて座らせて下さいね。お逢いしたら娘夫婦のこと、孫のこと、また、すぎし日のあれこれを話し、思いつきり、甘えてみたい。あなたは優しく、そうか、そうか、とうなづきながら、慰め、よくがんばたねと、ほめて下さいね。

 そして、そちらの「きみまち坂」につれて行つてもらいたい。

春のあでやかな桜花、夏、なまめかしい、新緑、秋、ようえんなもみじ、冬、清らかな雪模様など、四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。

 私はお別れしてからずつと、あなたを思いつづけ、愛情を支えにして生きて参りました。もう一度あなたの腕に抱かれ、ねむりたいものです。力いつぱい抱きしめて絶対はなさないで下さいね。





これは、秋田市に住む柳原タケさんが80歳の時に夫の淳之助さんへ宛てた手紙です。
(柳原淳之助さんは昭和14年5月13日、中華民国 山西省にて亡くなりました(享年32歳))
そしてこの手紙は、平成6年に開催された「第一回きみまち恋文全国コンテスト」で大賞を受賞しました。


ちなみに、この手紙の中に出てくる「きみまち坂」とは、秋田県能代市二ツ井町にある景勝地であり、東北御巡幸の際にこの地を訪れた明治天皇に宛てた香淳皇后の御歌(下記)が命名の由来となっているそうです。

  大宮のうちにありてもあつき日をいかなる山か君はこゆらむ
image-2.jpg

先日、日本橋三越の「生誕100周年記念 中原淳一展」に行ってきました。老いも若きも(もちろん僕も)乙女の瞳で中原氏の原画を覗きこみ、沢山の人でごった返す会場の様子は、平成の世に未だ衰えぬ中原氏の人気がうかがい知れました。

image-4.jpgimage-3.jpg

中原淳一の何が現代に生きる我々を魅了してやまないのでしょうか。確かに彼の描く少女の絵はとても可愛らしいです(中原淳一を知らない人でもどこかで目にしたことがあると思います)。その他にも様々なデザイン、人形もありますが、魅力はそればかりではありません。

このブログでも今までいくつか彼の言葉を紹介してきたように、彼は多くの文章も残しています。その多くは、戦後発刊した雑誌「それいゆ」「ひまわり」等に残っています。彼の素敵な絵と共にそれらの珠玉の言葉が掲載されている「しあわせの花束」を筆頭とする中原淳一エッセイ画集は、僕にとってバイブルそのものなのです。


「戦後、食べるものにさえ困るような状況でも、おしゃれを忘れず女性らしくあるように、生活に潤いを忘れないように…」

戦争の中で色を失い、そして焦土と化してしまった日本に潤いを取り戻すために、日本を再び美しい国にするために、彼は戦後まもない昭和21年に婦人雑誌「ソレイユ」(のちに「それいゆ」)、昭和22年に少女雑誌「ひまわり」を創刊したのです。

物資の少ない中で工夫する楽しいおしゃれ、身だしなみの大切さ、季節のよそおい、お友達との付き合い方、各種エチケット、流行と伝統、男性と女性の役割、美しさ、そして愛…

戦後の日本の女性は、中原淳一の雑誌から、女性として、人間として、美しく豊かに生きることを学びました。彼女たちは成長し、美しい女性となり、結婚し、家庭を持ちました。彼女たちは良き妻となり、母となりました。(あの美智子皇后も、少女の頃は「ひまわり」に自作詩を沢山投稿していたそうです。)
そうして良妻賢母となった彼女たちは戦後日本の復興の為に働く夫を支え、将来の日本を支える子供たちを立派に育て上げ、自らも日本の復興の為に力を尽くしたのです。

そうです。
中原淳一、彼こそが戦後日本を復興に導いた、陰の功労者なのです。

image-5.jpeg

日本中の人が、昨日より今日の方が少しでも美しくなったとしたら、
日本は昨日より今日の方がより美しい国になるわけです。
そして、今日よりも明日がもっと美しくなれたら、
日本中はまたずっと素晴らしい、美しい国になるでしょう。(中原淳一)
 晴天に恵まれ、皆さんと共に新しい年を祝うことを、誠に嬉しく思います。
 一昨年の東日本大震災にあたっては、多くの人々が被災地に赴き、被災者の為に力を尽くされ、心強いことでした。
 これからも、皆で、被災地に心を寄せて過ごして行きたいと思います。
 本年が国民一人びとりにとり、少しでも良い年となるよう願っています。

 念頭にあたり、世界の平安と人々の幸せを祈ります。
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。