mixiから亡命しました

mixiクオリティに見切りを付けて、2008年12月に日記をまるごとfc2に引越しました。
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母ぎみに勝る ともや世にある
生命の春にも 老の秋にも
優しく労り いとしみたもう
母ぎみに勝る ともや世にある
       (賛美歌 四三七番)

『私、女学校の時は寄宿舎だったんですけど、母の日にお部屋で、みんなでこの歌を歌ったんですよ。そしたら本当に悲しくなって声をあげて泣きましたわ。それは私だけではないんですよ、みんなで泣いてしまったんです。でも、そんなふうに、寄宿舎なんかで家をはなれて暮らしていれば、お母様のいないのがものたりなくて悲しいんですけど、小さい少女の頃は本当の母の有難さって、まだまだ分からないものですわね。私なんかやっと母親ってものが分かってきて、これから本当に母につくしたいと思ったら、まもなく母は死にましたわ』

と、とりかえしのつかないといったような、ちょっと悲しそうな歪んだ表情で、Kさんは静かに笑いました。

母の日は、毎年五月の第二日曜日です。毎日同じ家の中で暮らしていると、それはちょうど空気のように『有る』ということの有難さを忘れてしまって、自分に都合の悪いことがあると、つい不平が出てしまうばかりか、お母様のいろいろの心遣いが、足手まといのようなうるさいことのように思えることだってあるのです。

『お母様をお喜ばせすること』
『お母様に心配をおかけしないこと』
『お母様を悲しませないこと』

そんなことは、もう小学校の一年生の時に先生から教えられたような、もう分かりきった、あなた方には何の新鮮さもない言葉でしょう。しかし私達が毎日どれだけそれを実行出来ているでしょうか。心の中では分かっていても、自分勝手なことがしたい時には、都合よく忘れてしまうことはよくあることです。

あなたが一番人に嫌われるようなことをした時に、一番心配して手をさしのべて下さるのはお母様。そしてあなたが一番悲しい気持ちになった時に、一番最初に思い出す人もお母様でしょう。

『母の日』には、お母様のある人は、胸に赤いカーネーションをつけ、お母様にとって一番いい子であるように心をつかいましょう。お母様のない人は白いカーネーションを胸につけて、亡きお母様を偲び、お母様がなくても本当にいい少女になりますようにと、心にちかいましょう。

お母様は、天地にただ一人の方です。
なぜ米国は1945年8月6日午前8時15分、広島市に原爆を投下したのか?

「正義のため=戦争を終わらせるために必要だった=どんなに劣勢になっても降参するどころかカミカゼアタックをかましてくる日本に対して、ぐうの音もでないほど懲らしめる必要があった」とはよく聞く意見ですが、実は、

・(世界的脅威となりつつあった世界初の共産主義国家)ソ連に対する威嚇
・人体実験

米国の日本への原爆投下には、この二つの意味があったのです。



この世に今まで存在しなかった「原子爆弾」を作った米国は、動物実験をしました。対象は、ハエ、ねずみ…そして囚人…それから、日本人です。

人体に対する原爆の放射線障害についてはまだあまり判っていなかった当時、米国は、十数万人もの日本人の命を奪うことで、壮大な実験を成し遂げたのです。

そして同年、終戦を迎えました。

1946年、当時のトルーマン大統領の号令で、ABCC:原爆障害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission)が発足。最初は広島赤十字病院で、1950年から広島市の比治山の山頂に建てたかまぼこ型の施設で原爆障害の調査研究を行いました。メンバーはもちろんみんな白衣を着てお医者さんの格好をしていますので、はるばる太平洋を越えて被爆者の方々を治療しに来てくれたのかと思いきや、実はそうではありませんでした。

彼らは「日本人に対する謝罪につながるから」という理由で、治療行為は一切行いませんでした。

ABCCのメンバーは、やけどや怪我の状態を観察したり、採血、検尿、検便、組織を顕微鏡で観察するだけ。そうして徐々にさまざまな症状が進行していく様子を淡々と観察する毎日でした。
彼らは治療行為は一切行いませんし、被爆者は服を脱いでケロイドの肌を人目に晒し、それがカメラで撮影されるものですから、年頃の娘さんなどは、なおさら行きたくありません。でも行くのを拒否すると、処罰するぞと脅して半ば強制的に調査したのです。(当時は連合国占領下の日本「Occupied Japan」でしたから、日本人は言うことを聞くほかありませんでした。)

そうして被爆者がとうとう死んでしまうと、その遺体を解剖して、脳みそから内蔵から、瓶詰めして空輸、米国本土で組織を切り刻んで調べました。そして遺族には、内臓の詰まっていた部分に藁を詰めて仮縫いした遺体を引き渡していましたが、そのうち死亡者の数が多くなり処理も追いつかなくなってしまいました。

日本が主権を回復してから、遺族が「肉親の遺体を返せ」という運動を起こしたのですが、米国からは、大きな瓶に犠牲者みんなの臓物がごちゃ混ぜになって入っている大きなガラス容器が送り返されてきたそうです。


1975年、被爆者の診察と治療を続けてきた肥田舜太郎氏は国連へ「世界中の専門家を日本に集めて、被爆者の治療をしてほしい」という要望書を提出しますが、突き返されてしまいました。理由は、「原爆被害者は死ぬべきものはすべて死亡し、現在、病人は一人もいない」という報告書が、日米両政府から提出されていたからでした。

その20年程前から、「原子力の平和利用」「あと数十年で石油が枯渇する」という謳い文句で、ロックフェラーやカーネギーが原子力産業に進出しました。
 ユニオンカーバイド(ウラン採掘精製、核燃料、核廃棄物処理等)
 ウェスティングハウス(原子炉)←現在は東芝グループ
 バブコック&ウィルコックス(原子炉)←現在は日立グループ
そして日本もその波に乗っていたのです。
そうして内部被曝についての研究がまだ進んでいないような状況の中、世界中で原子炉が作られていきました。

そして今、ABCCのあった場所に、日米共同出資の財団法人「放射線影響研究所:RERF(Radiation Effects Research Foundation)」があります。
そしてここを訪れる修学旅行生は「米国がここで正義を行った」というウソを今も聞かされているのです。


そうそう、
なぜ米国は1945年8月6日午前8時15分、広島市に原爆を投下したのか?

米軍はあの夏、上空から広島市を毎日観察して、最も多くの人間が(遮蔽物の無い)外にいる時間は何時なのか調査しました。そうして割り出した時間が、午前8時15分だったのです。
整理は、自分の生活を快適にさせる第一条件です。美しい楽しい暮らしは、他人に見せるためではなく、自分のために必要なのです。ああ、あれをちょっと、と思って探してみてもたしかあったはずの所にない。それで半日もかかって、やっとあったとしても、その半日という時間は大変なマイナスです。その間にイライラしたり、重いものを動かして疲れたり、その下から大切なものがクシャクシャになって出てきて、ガッカリしたり。しまいに、自分で自分が気の毒になったりするものです。

最近よく「何かの時に役立ちそうだ」と、いつ使うかわからないようなものを取っておくから整理がつかない、そんなものはドンドン捨ててしまう方がいい、というのですが、たしかに捨てればその時はサッパリしますが、やはり取っておけばよかったと思う時もあるものです。だから、どうしても捨てたくないものは、小さいものなら、最近買物をしたら入れてくれる紙袋やビニール袋に分類して入れ、それを積み重ねて置いても、何が入っているかすぐわかるように、小包みの時に使う荷札に、中に入っているものを、ちゃんと書き込んで下げておくのも一つの方法です。

整理する時には、袋に分類して入れただけでもスッキリした気分になるものですが、いざという時に、一つ一つ袋の中味をたしかめて見るのは大変なことだし、袋の中味をいちいち頭の中に記憶するなどということは出来るものではありません。荷札をつける手間よりも、探す時の手間の方がよほど大きいことも考えて面倒がらないで下さい。
朝、会った人には「お早よう」と声をかけましょう。明るい、さわやかな声で、心から愛情をこめて「お早ようございます」と挨拶をして下さい。そうしたら、それを聞いた相手は一日中、幸せな心で暮らせるかもしれません。私たちのまわりには、そう幸せなことばかりが、ころがっているわけではありません。お互いが、ちょっとした心づかいで小さな幸せが生まれて、その積み重なりがあってこそ、私たちの暮らしの幸せは生まれるのではないでしょうか。

誰かに呼ばれたら、元気よく明るい声で「ハイ」と誠意をこめて返事をしましょう。これも、あいてにどんなに快くひびくことでしょう。返事は呼ばれたら、すぐするように。呼んでいるのに、しばらくしてから「何ですか」などというのはいけません。気持ちのよい返事をして下さい。

人の足をうっかり踏んだ時、それがほんのちょっとで、相手も大して痛くなかったとわかっていても、即座に「ゴメンナサイ」と謝って下さい。「アッいけない」と心の中では悪いことをしたと思っているのに、相手が何ともないような顔をしていたので、つい「アッ」といっただけで、知らん顔をしているのはよくありません。「アッごめんなさい」とはっきり、心から人の足を踏んだことを申し訳ない、という気持ちで言って下さい。こんな何でもない当り前のことだって、相手の人の心に、ポッと幸福の灯をつけることだってあるんです。

お互いに、そんな心づかいがあったら、私たちの暮らしは、ずっと幸せになるのではないでしょうか。
その庭には季節の花が咲き乱れていました。よく見るといろいろな花があって、春夏秋冬それぞれに、いつの季節にも花の絶えない綺麗な庭です。日本風な庭園の美しさ、西洋風な芝生の庭の明るさ、又、森や野原の自然な味も採り入れられて、整然としている、美しい素晴らしい庭だと思いました。

その家の少女A子さんは、ちょうどその庭の門といった感じに、まるくアーチ型に刈られ、小さな桃色の花を沢山つけた木を指して、
「父は家やお庭の手入れをするのがとても好きなのです。お仕事のひまな時や日曜日などには、このお庭の手入れは全部自分でしています。この家を建てたのは20年前ですから、まだ私が生れていない時ですわ。その頃から今のようなお庭になる計画をたてて、この木も一尺位の苗木を植えたのですって。それを大切にして、刈り込んだり手入れしたりしてこんな形にしたのです。20年かかってこのお庭の門の形が出来たといって、父は喜んでいますの」と話してくれました。

私は思いました。植木屋を呼んで、表面を立派な綺麗な庭にすることはすぐ出来ます。けれどこんなに美しく、細かく心のゆきとどいた楽しい庭は、やっぱり20年間、その少女のお父様がなさったように、一本の木にも草花にも神経を使って、愛して育てていってこそ出来るものだ、こんなに素晴らしい庭はみたこともないと思いました。そしてつくづくと考えたのです。本当にいいもの、美しいもの、立派なものを作るのは、長い時間がかかります。どんな立派な理想をもっていても、すぐそれを形にしようとすることはなかなか出来ないことで、又、立派な人、やさしい美しい心の人、いい人といわれる人にも、そう簡単にはなれるものではありません。

例えば、新しい家の白木の廊下を、気をつけないでそのまま普通に使っていたのでは、決してつやつやした美しい光った廊下にはなりません。牛乳やおからで毎日拭きこんで、長い間かかって初めて鏡のような廊下になるのです。

ここに一つの難しい数学の問題があるとします。この問題の答えを知ることだけなら、参考書を見るとか人に聞くとかしてすぐ出来るかもしれませんが、いつどんな所ででもすぐ解けるということは、いつも勉強している人でなければ出来ないでしょう。いい行いをする――道を聞かれた時親切に教えてあげる――それはいい行いですが、それだけでいい人になったことにはなりません。いい人というのは、必要に迫られていいことをしようというつもりでなく、いつも温かい美しい心をもった人になろうという心が積み重なって、長い間にきずかれていくものです。

いい人の心から出た行いと、いい行いをするのとは違うことです。あまり心のよくない少女が、今日はいい子になりましょうといって、その日は勉強もしたし、小さい子達に親切にしてあげた、お母様のお手伝いもよくしたなどといっても、それはいい行いをその日だけしたというだけで、いい人のする行いの真似をしたことにはなっても、その心がその日から入れ替わったのではありません。いい人というのはそういうことが自然に心から出来る人のことをいうので、それにはこういう人になりたいということをいつも忘れないでいると、それがいつの間にかその人の肌のように身についてしまうものです。

けれども、一度出来上がったものをくずしてしまうのは簡単です。例えば先刻の美しい花の咲く庭の門でも、はさみもいれないでそのままにしておいたら、すぐ形もくずれてしまい、又枯れてしまうかもしれません。光った廊下も、拭くことを怠けたり、その上で乱暴に子供達が遊んだりしたら、一日か二日でまないたのようになってしまうでしょう。美しくありたいと思ったら、美しくなってからでもなおみがくことを忘れてはならないものです。毎日のあなたの生活は、美しい心もひとになるように心がける毎日にいたしましょう。

誰でも美しい人の心にはなりたいものです。それは人が喜ぶからというだけではなくて、あなた自身の幸福なのですから。あなた達少女時代に、そういうことを忘れたり、怠けたり、又、気がつかないでいたら、あなたが本当の幸福な大人にはなれないのだということを忘れないで下さい。
東日本大震災から一周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。

一年前の今日、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ二万に及ぶ死者と行方不明者が生じました。その中には、消防団員をはじめ、危険を顧みず人々の救助や防災活動に従事して 、命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることが出来ません。

さらに、この震災のために、原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々には、住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには、放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が残っています。

この度の大震災にあたっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災地のために様々な活動を行ってきました。このような活動は、厳しい避難生活の中で、避難者の心を慰ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を深く労いたく思います。

また、諸外国の救助隊をはじめ多くの人々が、被災者のため、さまざまに心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で、互いに絆を大切にして、復興に向かって歩んでいく姿に印象づけられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災にあたって示された厚情に、深く感謝しています。
 
被災地の今後の復興の道のりには、多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくよう、弛みなき努力を続けていくよう期待しています。
そして、この大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心がけを育み、安全な国土を目指して、進んでいくことが大切と思います。

今後、人々が安心して 生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。
もしこの世の中に、風にゆれる「花」がなかったら、
人の心はもっともっと、荒んでいたかもしれない。

もしこの世の中に、「色」がなかったら、
人々の人生観まで変わっていたかもしれない。

もしこの世の中に、「信じる」ことがなかったら、
一日として安心してはいられない。

もしこの世の中に、「思いやり」がなかったら、
淋しくて、とても生きてはいられない。

もしこの世の中に、「小鳥」が歌わなかったら、
人は微笑むことを知らなかったかもしれない。

もしこの世の中に、「音楽」がなかったら、
このけわしい現実から逃れられる時間がなかっただろう。

もしこの世の中に、「詩」がなかったら、
人は美しい言葉も知らないままで死んでゆく。

もしこの世の中に、「愛する心」がなかったら、
人間は誰もが孤独です。

                中原淳一
 「坊やはパパとママとどっちが好き?」などと小さい子供にきく大人はよくあるものです。そうすると、たいていの子供は「ママ」と答えるようです。
 「なぜ」ときくと「いろんなものを買ってくれるから」と答えます。パパは一家をささえている大切な人です。しかし、ママにくらべて子供に接触する機会が少ないために、幼い子供にとってはパパを理解することは難しいようです。

 ですから、例えば、子供が何かねだった時でも、ママはすぐ買ってやるのではなくて「じゃあ、パパと相談してみましょうネ」とか「パパがいいっておっしゃったらネ」というふうに、その翌日にでも、また、次の機会にでも「パパが買ってあげなさいっておっしゃったから、サア買いましょうネ」といって下さい。買った物は子供がちゃんと、パパに見せ、子供の口から「ありがとう」とお礼をいわせる習慣をつければ、ママを通じて、自然にパパを尊敬する心を学ぶことになるでしょう。

 パパの帰りが遅くてイライラ。ママはつい「いったいパパは何をしてるんでしょうネ、困った人ネ」というようなことを子供に話しかけたりするものです。幼い子供でも案外敏感に母親の心の奥を読み取って、知らず知らずの内に父親をうとんじるようにならぬとも限りません。

 夫婦ゲンカをして、その気持ちのやり場がなくて、つい子供にパパよりママの方が良い人間で、子供をより多く可愛がっているのもママなんだ、というようなことをいってきかせて、子供を自分の味方にしていい気持ちになっているママもいます。

 父親への不信を子供の心にうえつけることは、伸びてゆく子供にとって大きな問題ではないでしょうか。
 毎年、スカートが長くなったり、短くなったり、ヘアスタイルもいろいろ変わったり、それから靴のカカトが太くなったり細くなったり、そんなものを身につける新鮮さも嬉しいものです。
 しかし、最近はマスコミが、人間の生き方や物の考え方にまでこれでもかこれでもかと流行を作って、そんな生き方をすることが、また、そういう考え方をする方が、新しいといわれたり、カッコイイ生き方だと考えられたりする傾向があるのではないでしょうか。
 人生をスカートの長さやヘアスタイルのようには考えないで下さい。
 いま、古いといわれている人間の習慣や生き方の中には、事実、切り捨てなければならないようなものも数多くあるでしょう。
 しかし、そんなものばかりではないはずです。何千年もの長い年月を生きてきて、その積み重ねから、人間を一番幸せにする基本のようなものが出来上がってきて、それから今日まで続いているものなら、それは、人間という動物の本質的なものだともいえるのではないでしょうか。
 だから、ちょっとした興味本意な思いつきや、無責任に作り上げられた風潮で「そんなの古い」と片づけてしまえないものも沢山あるはずです。
「いつまでも古くならないもの」それこそがむしろもっとも「新しい」ものだとはいえないでしょうか。
 人生はスカートの長さではないのです。

 1971年(昭和46年)「女の部屋」5号より
皆さん、松井石根という方をご存知でしょうか。

あの「南京大虐殺」の責任者として、極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受け、絞首刑となった人物です。
彼は一体どういう人物だったのか?その一端が「パール判事の日本無罪論」(田中正明著)から垣間見えると思いますので、その一部を紹介します。皆さんはどう感じるでしょうか?松井石根という人は、一体どんな人物だったのでしょうか?
ちなみに僕は、南京大虐殺は中国のでっち上げ、東京裁判も戦勝国のサディスティックな公開私刑だと思ってます。

 筆者は昭和8年から筆者が応召する昭和17年12月まで、約十年間を、民間人として松井大将の下で働いた。あるときは松井大将に随行して、台湾、香港、中南支全域にわたり旅行をしたこともある。このとき筆者が受けた強い印象は、大将がいかに中国を愛し、中国の指導者や民族と融け合っていたかということである。陸大を卒えると、みずから志願して中国へ飛び込み、先輩の荒尾精(元陸軍大尉)や根津一(元陸軍少尉)、川上操六(陸軍大将)、明石元二郎(陸軍大将)らの衣鉢を継ぐのだといって、そのまま生涯の大部分を中国の生活に投入した軍人である。中支派遣軍司令官の任を解かれ、南京入城の凱旋将軍として東京に帰ったが、大将は快々として楽しまなかった。アジアの内乱ともいうべきこの不幸な戦争で斃れた日中両国の犠牲者を弔うために、わざわざ人を派して、最大の激戦地である大場鎮の土をとりよせ、これで一基の観音像をつくった。これを、熱海市伊豆山の中腹にまつり「興亜観音」と称した。その御堂には、日中両民族が手をとりあって、観世音の御光の中に楽土を建設している壁画を何枚か掲げ、みずから堂守りとなって、そこに隠棲した。読経三昧の静かな明け暮れであった。終戦の翌年の正月、戦犯という汚名を着せられて、大将はそこからMPに引き立てられていった。家には文子夫人が一人堂守り生活を続けていた。施無畏の信仰に悟入した大将の二年余の獄中生活は、まことに淡々たるもので、あまりうまくない和歌や漢詩などをつくっていた。朝夕の読経は死刑執行のその日まで欠かさなかったそうである。死刑の宣告を受けてから筆者の手紙に、わが全生涯を傾けて中国を愛し、日中親善のためにつくした自分が、わが愛する中国人の恨みを買って死につくことは皮肉である。しかし、誰を恨み、何を嘆こうぞ。これで何もかもさっぱりした。このうえは自他平等の世を念じつつ、一刻も早く眠りにつきたい、という意味の遺書が寄せられた。
 その夜、大将は天皇陛下万歳の音頭をとり、しっかりとした足どりで、十三の階段をのぼったそうである。
 つい筆がすべって余談になったが、筆者がいいたいのは、この松井大将が、どうして、中国の無辜の民衆を大量虐殺せよなどということを「命令し、なさしめ、かつ許可する」はずがあろうか。このことは他の24名の被告に対してもいえることであろう。死者は還らない。だが、復讐の鬼となり、あえてこれを死にいたらしめたものの心は永久に癒えないであろう。


松井石根辞世
 天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く
 いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば
 世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等誠の心